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北の螢

  • posted at:2020-01-20
  • written by:砂月(すなつき)
きたのほたる
東映=俳優座映画放送
配給:東映
製作年:1984年
公開日:1984年9月1日
監督:五社英雄
製作:高岩淡 佐藤正之
企画:矢部恒 佐藤雅夫
プロデューサー:佐藤和之 厨子稔雄 遠藤武志
スーパーバイザー:阿久悠
脚本:高田宏治
撮影:森田富士郎
録音:平井清重
整音:荒川輝彦
照明:増田悦章
美術:西岡善信 山下謙爾
編集:市田勇
監督補佐:清水彰
助監督:長岡鉦司
装置:野尻裕
装飾:福井啓三
背景:西村三郎
記録:田中美佐江
衣裳:松田孝
美粧・結髪:東和美粧
演技事務:寺内丈夫
刺青:毛利清二
擬斗:土井淳之祐
馬術指導:渡辺隆馬
音楽:佐藤勝
主題歌:「北の螢」森進一
スチール:中山健司
進行主任:山本吉應
協力:福井市江上町 ほくりくみどりの広場 芝政 土佐料理 司 東映京都美術センター 東映俳優センター
出演:仲代達矢 岩下志麻 佐藤浩市 早乙女愛 隆大介
アメリカンビスタ カラー 125分

明治の初頭。徳川幕府から政権を引き継いだ明治新政府は、広大な土地と無尽蔵な資源を埋蔵する北海道の開発なくしては日本の西洋式近代国家への脱皮はありえないことを熟知していた。しかし未開の自然と想像を絶する極寒の気象条件は人間の侵入を拒み、開拓は大幅に遅れた。そのため北海道開拓使長官・黒田清隆は内務卿・伊藤博文と相談の上、全国の囚人たちを北海道へ押送し開拓労働に就かせることにした。明治14年、札幌の北方約30里に当たる石狩川上流に樺戸集治監が開設され、初代典獄は月潟剛史がその任に就いた。

集治監開設から2年の後の明治16年、絶対的な権力を持つ月潟は破獄を許した各務靭良監視長を平看守に降格させた上に減俸、担当看守9名にも減俸を命じた。そして捕縛した逃走囚60人全員を斬首の刑とし、執行を補充採用者として最近赴任してきた元新選組の永倉新八に任せた。集治監には斬首の作法を心得る者がいないことが抜擢の理由だった。だが据物斬の達人である各務が名乗り出た。62号囚は政府要人の暗殺を企てた国事犯で元は幕府の直参だったが、前田看守を殺したことへの決着をつけたいと考えたからだ。月潟はそれを認め、翌日午後3時に第二獄舎囚人全員を立ち合せた上で行うことを命じた。ところが要領を得ない各務は処刑をしくじり、見兼ねた月潟は各務、62号の両者を斬り捨てたのだった。

逃走囚の捜索の際に各務隊が雪中で発見した旅芸人の行き倒れの中に一人だけ息がある者がいた。三味線弾きのその女・ゆうを気に入った月潟は、情婦のすまが女将を務める料理屋に預けることにした。ある日、峰延道路の進捗状況を視察にきた内務省開拓副長官の石倉武昌は月潟に休養を取るように言った。それは集治監の典獄を4年の間任せられることになっていた月潟にとって寝耳に水の出来事だった。だが北海道の行政が一変して札幌、函館、根室の三県に分かれることになり、札幌県知事の有力候補として彼の名前が挙がっていることを知ると話は別だ。ゆうを石倉の寝所に向かわせる代わりに彼女の要望を飲むことにした。それは国事犯として捕えられている男鹿孝之進との再会だった。かつて京の祇園で芸姑をしていたときに匿ったことがきっかけとなったのだ。ところがゆうは続けて赦免を要求してきたため、頭に血が上った月潟は石倉のところへ行くか今すぐ村を出て行くか選べと怒鳴りつけた。

ゆうが指示通りに石倉のもとへ行ったため、月潟は彼女を男鹿と面会させることにした。あなたを赦免にするためならどんなことでもする覚悟できたとゆうが言うと、男鹿は赦免の必要はないと断った。男鹿は明治政府の囚人に対する扱いに抗議するために自ら犠牲となり1300人の凶悪犯の破獄を手助けする覚悟でいたのだ。それを聞いて驚くゆうに、男鹿は月潟を刺せと命じた。

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