忍者ブログ

モスラ(1961年)

  • posted at:2016-09-23
  • written by:砂月(すなつき)
もすら
東宝
配給:東宝
製作年:1961年
公開日:1961年7月30日 併映「アワモリ君売出す」
監督:本多猪四郎
製作:田中友幸
原作:中村真一郎 福永武彦 堀田善衛
脚本:関沢新一
撮影:小泉一
美術:北猛夫 安倍輝明
録音:藤縄正一 宮崎正信
照明:高島利雄
音楽:古関裕而
挿入歌:「インファントの娘」ザ・ピーナッツ
振付:県洋二
監督助手:野長瀬三摩地
編集:平一二
現像:東洋現像所
製作担当者:森田信
特殊技術・撮影:有川貞昌
特殊技術・美術:渡辺明
特殊技術・照明:岸田九一郎
特殊技術・作画合成:向山宏
特殊技術・光学撮影:真野田幸雄 
特殊技術・制作担当者:成田貫
特技監督:円谷英二
出演:フランキー堺 小泉博 香川京子 伊藤ユミ 伊藤エミ
シネマスコープ カラー 101分

カロリン群島で発生した台風8号。瞬間最大風速が80メートルにも及ぶ超大型台風は毎時50キロのスピードで日本に向かって北上していた。松菱海運の貨物船・第二玄洋丸が渦中にいたことから、船舶協会は第七管区海上保安本部に対し救援を要請した。その頃、第二玄洋丸はロシリカ国の原水爆実験場となっているインファント島の海岸付近に流され座礁した。この一帯は放射能の汚染地域であることから生存者は絶望視されていたが、海上保安庁の救難ヘリがK岬の海岸で4名の遭難者を発見した。巡視船さつまに救助され国立総合核センターに運ばれた遭難者を調べたところ、不思議にも放射能の汚染症状が発見されなかった。そこで原田博士は直接彼らに問診を行ったが、特に変わったことは感じられないという答えが返って来た。そのとき光が閃き、それがカメラのフラッシュだとわかると院長はフィルムを出すように言った。カメラの主は日東新聞の花村ミチで、社会部記者の福田善一郎とともに関係者に紛れていたのだ。呆れた原田が何を聞きたいのかと尋ねると、致死量の放射能の中からどうして奇跡の生還が出来たのかと福田は逆に尋ねた。すると遭難者の一人が口を開き、原住民が飲ませてくれた赤いジュースのおかげかもしれないと言った。

無人島と言われていたインファント島に原住民が住んでいるという特ダネをスクープし意気上がる天野貞勝社会部長は、夕刊の一面にこの記事を載せることを決め、善一郎にロリシカ大使館で行われる大使の談話を取るよう命じた。大使はインファント島に原住民がいないことを調査、確認して実験場としているため、調査隊を派遣する必要はないとした。だが突然前言を撤回して日ロ合同調査隊を派遣することになったため、善一郎は参加することになっている言語博士・中條信一の自宅を訪ねた。ところが中條は写真を撮られることをひどく嫌い、ミチからレンズを向けられると新聞紙で顔を隠し適当な意見を言って早く帰らせようとしたのだった。そこで善一郎は撮影しないことを条件にして取材を行った。ポリネシア海域の少数民族間には言語、風俗、習慣に共通点があり、その要因はポリネシア一帯はその昔大陸だったのではないかという仮説を話すと、ミチは怪訝な顔をした。そしてカメラから覗いた現実しか信じないと言った。

合同調査団が出発することになったが、ロリシカ国事務局長のクラーク・ネルソンは報道関係者の乗船を禁じた。さらに調査資料はネルソンが一括して処理することになっており、原田と中條は彼に不信感を抱いた。抗議するために中條がネルソンの部屋へ行くと、使用人として忍び込んだ善一郎に銃口が向けられていた。何か用かと言われた中條は、調査資料全てを提出することはロリシカ政府の意向かと尋ねた。そして調査隊の希望だと知ると、ひと言断ると言い残して善一郎を連れ出したのだった。原田はネルソンと話し合い、記者活動を行わないことを条件に善一郎を臨時の警備員として乗船させることを承諾させた。

屋台的映画館
PR
Name
Title
Mail
URL
Comment
Pass
Pictgram
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

 

プロフィール

HN:
砂月(すなつき)
性別:
非公開
自己紹介:
ブログ主はインドア派大分トリニータサポーター

 

P R

 

フリーエリア