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続 拝啓天皇陛下様

  • posted at:2020-07-18
  • written by:砂月(すなつき)
ぞくはいけいてんのうへいかさま
松竹(大船撮影所)
配給:松竹
製作年:1964年
公開日:1964年1月1日 併映「モンローのような女」
監督:野村芳太郎
製作:白井昌夫
制作補:杉崎重美
企画:市川喜一 高島幸夫
原作:棟田博
脚本:多賀祥介 山田洋次 野村芳太郎
美術:宇野耕司
撮影:川又昻
照明:三浦礼
編集:浜村義康
録音:栗田周十郎
調音:佐藤広文
音楽:芥川也寸志
色彩技術:古畑成央
録音技術:沼上精一
装置:岩井三郎
装飾:安田道三郎
現像:東洋現像所
衣裳:杉山和利
監督助手:杉岡次郎
撮影助手:坂巻佐平
録音助手:田中俊夫
照明助手:堀利英
撮影事務:中村興一
進行:石和薫
出演:渥美清 藤山寛美 勝呂誉 小沢昭一 久我美子
シネマスコープ カラー 94分

昭和十九年、春。山口善助は軍犬兵として長辛店の軍犬部隊に配属された。加仁班長曰く軍犬兵は成績が優秀な兵長や上等兵が務めると軍通達で決まっているそうだが、何故か一等兵の善助が選ばれたのだった。上層部が決めたことに逆らうことが出来ないことから、加仁はここにいるときだけという条件で善助に上等兵の階級章を渡した。

軍隊生活六年目でまだ一等兵の善助。軍隊ではこのような男をもさくれと呼んだ。その善助にも子供の時代はあった。昭和二年、岡山県の下津井港で善助は初めて天皇陛下を見た。学校の引率で港に着くとその場で三時間待たされた。そしてようやく見えたのは沖を行く煙ばかりだった。そのとき善助はなんとまあ天皇陛下様は偉いものだと思った。昭和四年、その頃は不景気のどん底で善助の一家は食事をするのも困難を極めた。ある日、いたずら坊主の善助は飯抜きにされたが、一家は拾ってきた魚で中毒を起こし皆死んだ。幸い生き残った善助は親戚に引き取られた。昭和八年十二月、菓子屋で店頭の饅頭を盗もうとした善助を店主は特別な日だからと大目に見た。その日は天皇陛下に男児が産まれたことで町は提灯行列で賑わっていた。善助は店主から握り飯をもらったが、その思い出はいつまでも残り彼の天皇贔屓はこの日から始まった。昭和十一年、小学校に赴任してきた女子先生から文字を教わることになった。だがそのうち勉強よりも彼女の傍にいたいという気持ちが強くなり、先生のことを思うと胸が熱くなった。ある日、気持ちが抑えられなくなった善助は摘んだ花を渡すとともに抱きつこうとしたが、付近にいた漁師たちに取り押さえられた。その結果、強姦未遂で岡山少年刑務所へ送られた。一年後、出所したときにはもう女子先生はおらず周りの者も刑務所帰りを相手にしなかった。そんな彼を雇う職業はうんこ屋と揶揄される汲み取り屋しかなかったが、昭和十四年一月の徴兵検査で甲種合格し岡山歩兵第十連隊に入営した。食うや食わずの毎日がここでは三度の飯の心配がなく十日毎に俸給がもらえて住むところもあり、人が嫌がる軍隊も善助には天国だった。だが二年経てば満期除隊となりまた元の生活に戻った。ところが昭和十六年の春に赤紙がきたことでまた天国の暮らしが出来ると天皇陛下に感謝したのだった。

軍犬部隊で友春号の飼育係となった善助だったが犬の調教の苦労は並大抵ではなかった。つらい毎日が続く中、初めての外出が許されると真っ先に飲食店へ向かった。ところが酔った勢いで店主と大喧嘩をしてしまい重営巣送りとなった。夜が明けると加仁は窓の外を覗いて見ろと善助に言った。そこには彼のことが心配で夜中に金網を噛み破り会いにきた友春号がじっと待っていたのだ。これほど心配した人間が娑婆にいたのかと加仁から問われた善助は愚かな行動を反省した。

屋台的映画館
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