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こまどりしまいがやってくるやぁやぁやぁ
アルタミラピクチャーズ
配給:アルタミラピクチャーズ
製作年:2009年
公開日:2009年10月31日
監督:片岡英子
製作:桝井省志
プロデューサー:土本貴生 山川雅彦
撮影監督:長田勇市
編集:村上雅樹 宮島竜治
録音:郡弘道
タイトルデザイン:赤松陽構造
製作主任:井手浩一朗
企画協力:こまどり音楽事務所 西原義治
撮影:志賀葉一
協力:遠藤実 石本美由紀
製作協力:アルタミラミュージック
出演:長内栄子 長内敏子 渥美二郎 内海桂子
アメリカンビスタ カラー 71分

今日も日本の何処かで歌っているこまどり姉妹。長年芸能界で活躍する裏で、彼女たちは数知れぬ苦労を重ねてきた。昭和13年、釧路の家に生まれた双子の姉妹・長内栄子と敏子は、父親が炭鉱夫ということのあって様々な炭鉱町を転々とした。2歳のときに樺太へ渡ったが、その時は日本が景気のいい時期だったこともあり裕福な生活を送った。太平洋戦争の終結によって7歳のときに日本へ引き揚げることになったが、国内は混乱しており父親は職にありつけなかった。小樽の銭函へ移ったときに父親が結核で倒れ、母親が生活のためにヤミ米の担ぎ屋として働いた。だが度々留置場へ入れられることもあり、腹を空かせた栄子たちはよそ様の畑から野菜を拝借するなどして飢えをしのいだ。学校生活では給食代を払えないため、腹いっぱいで食べられないというような素振りをして運動場で時間を潰した。借金取りに泣きながら謝る母親の姿を見た二人は早く大きくなって親孝行をしたいと思うようになった。だが11歳のときに家賃が払えず家族で夜逃げをしたことで、二度とその地を踏むことはなかった。大楽毛に移り住むとうなだれる父親を叱咤する母親は日銭を稼ぐために自ら門付芸人として歌で家々を回った。ところがある家の前で歌ったときに、後ろで立っている双子が歌えばお金をあげると言われたため、空腹の栄子と敏子はやむを得ず初めて人前で歌った。その後、流しの老人の勧めで帯広に移り飲食街で修業を積んだ。

昭和26年2月、13歳のときに上京し一番安い家賃として紹介された浅草山谷に住んだ。町にはアルコール中毒者やヒロポン中毒者がいたが、そうはなるまい、早く町から抜け出したいという一心で仕事を続けた。双子という珍しさもあってあちこちから声が掛かるようになると、妬んだ同業者から嫌がらせを受けるようになった。だが三味線を弾くなら流しを続けてもいいと言われたため経験はないもののやることにした。努力が実を結び売り上げが一日4、5千円になると、管理する両親がその中から家賃と食費を差し引いた残りを全て渡したことで二人は俄然やる気を出したのだった。16歳の頃になると三味線と踊り専門でお座敷に呼ばれるようになった。そのきっかけは、このまま流しを続けても先が見えていると感じたからだった。流しを辞めたいと相談すると両親は収入が途絶えてしまうと言って泣いた。それを見た二人は0が増える芸人になるから信頼してついてきて欲しいと必死になだめた。その頃は子供の歌手が注目される時代であり、そこに目を付けた父親はマネージャーとなって二人をレコード会社や映画会社に連れて行った。流しだったことをバカにされ芸能界に入るまいと考えた栄子たちだったが、勘当の手紙を青森の親戚から送られた父親の寂しい背中を見たことで、何とかして世の中に名前を知らせなければと思うようになった。昭和34年、21歳のときにコロムビアに入社し「浅草姉妹」で念願のレコードデビューを果たした。デビュー当時の芸名は「並木栄子 葉子」だったが、担当ディレクターがそれでは漫才コンビみたいだと言ったことで新しい芸名を一般公募することになった。美空ひばりにあやかって鳥の名前をつけたいと考えていた二人は3千通以上の葉書の中から「コマドリ」と「駒鳥」を見つけ出し、「こまどり姉妹」という名に決めた。そして4月に発売した「ソーラン渡り鳥」は空前のヒットとなった。

屋台的映画館
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