橋本プロダクション=東宝映画=シナノ企画
配給:東宝
製作年:1977年
公開日:1977年6月18日(青森県先行公開 1977年6月4日)
監督:森谷司郎
製作:橋本忍 野村芳太郎 田中友幸
企画:吉成孝昌 佐藤正之 馬場和夫 川鍋兼男
原作:新田次郎
脚本:橋本忍
撮影:木村大作
美術:阿久根巌
録音:吉田庄太郎
照明:高島利雄 大沢暉男
音楽:芥川也寸志
助監督:神山征二郎 橋本信吾 永井正夫 桃沢裕幸 中沢新一
編集:池田美千子
記録:米山久江
タイトル:米内康夫
現像:東洋現像所
製作担当:小山孝和
出演:高倉健 北大路欣也 加山雄三 三國連太郎 丹波哲郎
シネマスコープ カラー 169分
明治三十四年十月、第四旅団司令部において重要な会議が行われた。日本とロシアとの海戦は時間の問題となっており、軍はそれに備えて兵器の充実や兵の教育に力を入れていた。だが中林大佐には現陸軍に準備不足と感じている部分があった。それは寒地訓練だった。予測される戦場は遼東半島から満州に掛けてであるが、先の日清戦争では寒さのためにこの遼東半島で四千人もの凍傷者を出したことで軍の作戦に大きな支障をきたした。次に戦う相手はシベリアの寒さに耐えうる装備と極寒零下数十度においてもなお戦う術を修得するロシア軍であることから、それに対する訓練は一日でも怠ることは出来なかった。また海戦ともなればいち早いロシア艦隊は津軽海峡と陸奥湾の封鎖を行い、その際に艦砲射撃で鉄道や道路を破壊される恐れがあった。そして青森ー弘前、青森ー八戸方面がそれぞれ遮断されると八甲田山系を縦断する以外に方法がなかった。そこで中林は師団参謀長としての私案である寒地装備訓練と同時に万が一の場合の交通路確保の作戦を中隊もしくは小隊編成で行う八甲田山の踏破による調査を提案した。そして友田少将は雪中行軍の経験者である青森歩兵第五連隊の神田大尉と弘前歩兵第三十一連隊の徳島大尉を指名した。会議後、弘前と青森の双方から出発して八甲田山辺りですれ違うという行軍計画を児島大佐が提案すると、自然条件が同じであることを考えればそれが最適だと津村中佐も同意した。
行軍が翌年の一月末か二月初めと決まり、準備のために田茂木野村に出向いた神田は村長の作右衛門から話を聞いた。だが様々なことを聞くうちに今回の作戦が如何に無謀であるかを思い知らされた。その季節は雪が深い上に風が強く一度踏み込んだら生きて帰れない、まるで白い地獄だというのだ。失敗は絶対に許されないことから神田は徳島と情報交換を行ったが、その中で踏破が中林や友田の命令ではなく連隊の責任ということになっていることを知り驚愕した。だがもう引くに引けない二人は資料を参考にして具体的な方法を話し合った。神田が別れ際に今度会うときは雪の八甲田の何処かでと言うと、徳島は静かに頷いた。
徳島は第三十一連隊の雪中行軍計画書を提出した。十泊十一日で行程二百四十キロを踏破するいう無謀な計画書を読んだ児島は驚きどういうことかと説明を求めた。すると徳島は壁に貼ってある地図の前に立ち、弘前から十和田湖に進み南側に沿って進んだ後、北上して八甲田山の北側を進んで弘前に戻るという計画を説明した。そしてその行程になったのは連隊長の責任だと言うと児島は反論出来なかった。徳島は続けて、第五連隊が八甲田を経て八戸方面に向かうため、我々がすれ違うには迂回する以外に方法はないと言った。行軍は見習い士官や下士官を主力にした二十七名の編制するが、それは研究に主眼を置いていることと、いざという場合に国民に対して申し訳が立つからだ。徳島は旅団司令部で安請け合いしたことを後悔していると胸の内を正直に打ち明けた。児島はそれを黙って聞くしかなかった。
屋台的映画館
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